狭い世界に生きることについて、2つほど考えている事がある。

僕は、3ヶ月に1回ほどのタイミングで、高校で授業にお邪魔させてもらっている。1時間ほど、キャリアについての話をする。これは仕事として参加させてもらってるのだけれど、自分自身にとってとても良い勉強になる。ライフワークだ、とも思っている。

その中で感じるのは、小学校から高校まで、すごく狭い世界だなということである。

閉鎖的で非流動的だと思う。


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転校生がきて、ざわざわすることがあったとしても、
基本的には同じ空間、同じメンバー、同じ場所。

今回は、別に学校教育を批判する訳ではない。
ただ、閉鎖的な環境だ、というだけである。

ちなみに大人になっても同じような場所がある。
それは職場である。

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昔、別の会社に入った後輩をみていて、
何だかとても辛そうだったのを思い出した。

辛そうだった理由は、
今まで大学でやってきた時と、
社会人になってからと、
でルールが全く違うからだった。

それは僕も同じだった。

僕は大学では多少ちやほやされたところがあった。
かわいい後輩もたくさんいて、
「新社会人になったら尊敬される大人になろう」
そんな風に思っていた。

でも、会社に入ってすぐに
うまくいくはずなんてなくて、
仕事では失敗もたくさんした。
「尊敬される社会人なんて無理だ」
と思っていた。

何となく後輩や同級生とは
顔を合わせたくなかった。

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例えば、そんな毎日が続いたとき「もう死のう」と決めたとして、
だれかに相談する中で「もう少し頑張れ」と言われたり、
自分の中では「逃げるのが嫌」だったりもする。
 
どちらも選ぶのは難しいから例えば、
この世界をなかったことに、
つまり自殺を選ぶとする。

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でも、あなたにとってその世界が全てでも、
その世界は社会全体から見ると
ごく一部なのである。

僕は、一社目をやめて、独立して、
今日も何とか生きている。
 
すこし経って振り返ってみると、
小学校も中学校も高校も大学も職場も、
狭い世界の1つ、
でしかなかったことに気づく。

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なので、まるっとなかったことするのは
他の世界を見てからでも遅くはない、
と僕は思う。

今すぐ自殺してしまいたい気持ちも分かるが、
そんなあなたは正直、
情報が不足していると思う。

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閉鎖的で非流動的な環境には、
組織の主観が働き、客観性が損なわれる。

多くの人は、おかしい環境に慣れると、
それがおかしい事だと気がつかないと思う。
それは、あるいは慣性の法則が
働いているのかもしれない。

誰だって、自分の慣れている環境を大きく変えるよりは、
置かれている環境下の小さな変化を受け入れると思う。

何より、大きな環境の変化は
危険も伴う事を僕たちは知っている。

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だからなんとなく、
その組織にいる事が、正解のように思うし、
それしか手段がないように感じる。

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そんな時は、大きく環境を変えるより、
今いる環境の中で、小さく好きな事をやったら良いと思う。

会社が嫌になれば、
おもしろそうな仕事の副業をしたっていいし、
副業が禁止ならどこかでボランティアしたり、
プロボノとして活躍するのもありだと思う。

学校が嫌なら、
家に帰ってからの時間を
どうしたら充実させる事ができるか、
考えたら良いと思う。

実社会に、受け入れられないのであれば、
インターネットで
自分の心地の良い世界を見つける事も1つだ。
(インターネットの世界を選ぶことは、
悪い事ももちろんある。
それはまた別の機会で。)

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余談だけれど、
閉鎖的なコミュニティそれ自体が悪い、
とは僕は思っていない。

場合によっては
心地よくも感じる閉鎖的な環境もある。

学校や職場が閉鎖的なのは、
効率よく均等にサービスを届ける為であり、
外部からくる危険を回避するためである。

閉鎖的である、ということは
組織に所属している以上、
多かれ少なかれ
どんな形でも当てはまると思う。

これは今、記事を書いている
僕自身にももちろん当てはまる。

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組織とは、閉鎖的で非流動的なのである。

固定化された組織に嫌気がさしたあなたは、
「組織に流動性を求める」
ことよりも、

まず
「自分が流動的になり、外の情報をあつめる」
それが一番良いと思う。

社会は発見の連続で、
居心地の良くない閉鎖的な世界に
固執するにはもったいない。

せっかくコミュニティを
選べる時代になったのだから。